えげつない、ひとのみち事件から倫理法人会を考察する

倫理法人会カルト, 宗教, 洗脳


辞めたから分かる倫理法人会のここが凄い
倫理法人会に誘われたら、先ず読む本

この書籍は倫理法人会の元会員だった方が書かれたものです。
どちらかというと倫理法人会の存在を肯定した上で書かれてありますので、それを念頭に置いた上で読んだほうが良いかと思います。

人それぞれ解釈や考え方が違いますのでこの本の内容を全否定はしませんが、倫理法人会って何?という方は、これを鵜呑みにしない方が良いかもしれません。

前回の記事
カルト宗教との違いがイマイチよくわからない倫理法人会

の中で、倫理研究所の元となっている『ひとのみち』教団に関する事件について書かれた記事を音声読み上げソフトにて音声ファイルにしました。

疲れ目やドライアイなどで長文を読むのが辛い人は音声にてお聞きください。

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 倫理および宗教(4-106)
報知新聞 1936.10.1-1936.10.3 (昭和11)

より引用しています。

ひとのみち事件批判 (1〜3)
宗教における思想と風俗
戸坂潤
ひとのみち事件批判 (online-audio-converter.com) (1)

文字で読みたい、或いは見ながら聞きたい方は記事をコピペした下の文章も併せてどうぞ。

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 倫理および宗教(4-106)
報知新聞 1936.10.1-1936.10.3 (昭和11)

ひとのみち事件批判 (1〜3)
宗教における思想と風俗
戸坂潤
(1)

 『ひとのみち』教団の教祖御木徳一氏が初代教祖の位置を隠退すると時とを同じくして、関係者一同と共に検挙された。数名の処女を宗教的暗示によってだまして犯したという犯罪が、被害者の一人の家族による告訴から露見したというのである。同氏はその犯行を認めて性犯罪の罪名の下に送局された。
 新聞社会面を一見すると、初めは何か、ひとのみち教団そのものに手入れがあったように読者に感じさせるものがあったが、検察当局の握っている弱点はまだ教団の教理に触れたものではなく、また教団そのもの—その組織、経済的内実、等—にさえも触れてはいないのである。今の処問題は全く御木氏一個人の犯罪につきるのであって、単にこの人物が偶々この教団の始祖であったというまでであり、あるいは教団の始祖であったが故に初めて宗教的威力が自由になったのでこういう犯罪に陥った、といった方が正しい、というまでである。

 勿論この犯罪の実質は決してただの個人的な性質のものではない、この場合に限らず一般の犯罪はそういうものだが、しかし普通の場合には犯人個人の立つ社会的バックは問題にしないことになっているのに、今の場合は信徒二百万と号する教団という特別のグループと宗教々理という特別な運動原理が控えているおかげで、問題は個人から一種の社会的バックにまで一続きのように受け取られ易い。当然これはしかあるべきもので、普通の犯罪の場合にそれを社会的条件にまで溯源させて見ない方が間違っているのだ。—当局は教理に不敬がありはしないか教団会計に横領がありはしないか、と見ているのであり、またひとのみち教団が宗教行政に適応するために名目上自分でその一派と名乗っている扶桑教にも検察の眼を向け始めた

 大本教の検挙はこれとは趣を異にしていた。大本教の検挙の法的根拠はその教理内容の実際が不敬にわたることだった。不敬というのは国体と相容れぬことであり、それというのも実は却って国体の不敬な模倣であったからであり、つまり…似寄っていたからであるが、この点になるとひとのみち教団の教義内容も極めて国体主義的なものなのだ。恐れ多くも教育勅語がその教典の一つになっている位だ。この点教育関係の当局や有識者の大いに参考になる点だが、しかし教育関係者がなお安心してよい点は、ひとのみち教団はまだほとんど何等の政治的綱領を有っていないらしいということだ。そこでまだいわゆる不敬にならずに済んでいるのである。

 『ひとのみち』は宗教的世界征服計画は持っていない。これが大本教と異る処であり、またこの頃流行の大陸教や南方教と異る処だ。禅宗僧侶の出身と伝えられる『おしえおや様』御木氏は、もっと市井猥雑の間に行われ得るものを以てした。夫婦の性行為を強調する処の性的宗教と見なされて来ているゆえんである。でひとのみちの刑法的価値は、今の処思想警察関係というより、風俗警察関係にあるというべきだろう。

 ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ。こういっても私は別にひとのみち教団だけを特別に悪いと考えているのではない。悪いのはいわゆる新興宗教全体であり、それよりもっと性の悪いのはいわゆる正信や既成宗教や宗教圏外の権威を持つ宗教的信念であるのだが、ひとのみちは偶々正直にも、この悪いものの代表としてみずから買って出たものであって、この点むしろ極めて誠実な犠牲的なそして天才的ともいうべき現代『宗教』なのだ。
 ひとのみちにはキリスト教や仏教のような文献上や文学上の長所がない。だから宗教学者のいう『宗教的真理』はない。品も悪く柄も悪い。しかし下等な人格や品の悪さにも拘わらず美人というものがあるように、恐らくこの宗教にはある甘美な風俗感を催させる何かがあるのだろう。そこに問題があるのだ。
(2)

 たとえば、類似宗教に数えてしかるべき『生長の家』の谷口氏は、一種の文学的才能をもっている。講演したものを読んでみると、キリスト教のソフィズムを感じるのである。倉田百三氏の『出家とその弟子』などと、ジャンルは別だが文化的本質を同じくしているだろう。既成大宗教もその阿片的魅力の大部分は実はこういう文学的な魅力であることを、注意しなければいけないと思うが、処が『ひとのみち』になると(天理教や大本教でもそうだが)さういう文学的魅力はまるでない。
 通り一遍の文化人は、この非文学的な宗教を見て、一遍に軽蔑してしまう。そしてこれこそインチキ宗教のインチキたる証拠だと考える。そこへ持って来て、猥雑な観念とデリカシーを欠いた趣味の悪い実践とだ。いよいよインチキだということになる。—だがこうした点はインチキ宗教のインチキたる症状ではあっても、そのインチキ性自身ではない。発熱は病気の症状だが、病気の本質ではない。熱が出ずに次第に命を落とす病気も多い。文化人の趣味や嗜好にとってインチキに見えないようなインチキが沢山あることを忘れてはなるまい。だから『ひとのみち』だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるもののインチキ性を思い切って露出したまでだというのである。

 しかし社会の既成観念の秩序が乱れて来ると教養あり教育ある人間も、その趣味や嗜好ではもうやって行けなくなる。その趣味や嗜好の洗練が物の役に立たぬとなれば、文化人も平俗人も結局同じものになる。でそこに、一種風俗感を催情するものとして立ち現れた『ひとのみち』やこれを典型とする一連の類似宗教は、識者と無識者とを問わず、斉しく風俗的魅力を有って来る理由があるのである。この風俗的魅力とは思想における最も抽象的な共通物のことであって、丁度猥談が最も抽象的で共通な理論であるようなものだ。軍人や学者や政治家や実業家という偉い人達が、類似宗教に投じる所以であって、その際インテリの既成宗教についての教養などは、問題にならぬのである。—小僧をもっとよく働かせる手段として『ひとのみち』の類を信仰するのだ、という風にばかりは私は考えない。もっと『親切な』見方が必要のようだ。

 さて新興類似宗教のこの特殊な風俗的魅力は何だろうか。つまり何だって見識のありそうな人までがこういう無知なグロテスクなものに熱中しなければならぬか、ということである。内務省と文部省との意見が一致した処によると、そこには大体四のものがあるそうである。第一、既成宗教が無気力であること。第二、大衆の生活不安と思想混迷。第三、医療制度の不徹底。第四、宗教復興。精神作興の声の利用。というのである。

 当らずとも遠からずの説明であるが、しかしこれをどういう風に理解するかで、見解は全く別なものにもなるのである。既成宗教が無気力であるために類似宗教が勃興して来たというのは本当だが、それでは既成宗教を盛大にすれば類似宗教はそれだけ下火になるのだろうか。宗教は団体取締法によって宗教を国家的に統制したりまた権威づけたり、学校に宗教情操教育を持ち込んだりすれば、類似宗教は多少とも参るだろうか。いや一体そういうやり方でいわゆる既成宗教の気力とかが生じているだろうか。宗教の気力は一つの場合には政治的な反抗意識として、また他の場合には地上の権力的支配意識として、燃え立った歴史を持っているが、今日の日本の既成宗教にそういう気力は絶対に期待出来ない。

 大衆の生活不安なるものの内には医療制度の社会的不備を含ませねばならぬ。非科学的治療を信頼することが迷信であるというような観念は、単に医学博士的なまたは自然科学の教授然たる迷信の観念にすぎぬ。類似宗教のインチキ治療が、医者の治療よりも安そうだと思えばこそ、同じ死ぬなら金のかからぬ治療方法で以て死のうという次第なのだ。だから迷信を極めて合理的に運用している場合もあるのだということは、注目に値する。これが迷信的治療の極めて理性的な本質なのだ。迷信にさえ理性的本質を与えるということが、今日のいわゆる生活不安の悲しむべき作用なのである。
(3)

 類似宗教擡頭の原因の一つを、現代思想の混迷に帰せようとする内務、文部案もまた間違ってはいない。だが一体今日の思想は混迷しているのだろうか。マルクス主義乃至唯物論の側に立つ思想も、勿論今は絶対的安定を得ているなどということは出来ないが、しかし結局においてハッキリとした見透しを持っているわけで、混迷などとは似ても似つかぬ事態の下にあることを思い出さねばならぬ。混迷している思想というのは、ある特別な思想に限るのである。
 思想の混迷とかいうものはどういう時に発生するか。既成思想の崩壊に当って、これに代るべき新しい生きた思想が、与えられない時だ。あるいは与えられたように思われても、その与えられたのが輪郭の潔くない、その意味で不潔な、もっともそうなまたもっともらしからぬ、不信用な観念である時である。そして特に、当然行くべき思想段階に行きつこうとして、しかもそれを強制的に妨げられる時、思想は最もいちじるしく混迷し腐廃するものなのだ。

 だから思想の混迷を矯正するといって、思想を強制的に統制しようとし始めたりすればそれこそかえって思想をくさられて混迷に導くものなのである。内務省や文部省が思想の混迷を類似宗教発生の一原因と見なす場合、思想の進歩と代謝とを圧制することによってこれを混迷させたものも自分達なら、また次にこれを強権的に統制して重ねて混迷へ導くものも、自分達自身であるこということをあるいは自分でも知らないのだろう類似宗教征伐に最も熱心であるものが、あに計らんや類似宗教の温床であるということ、こういう一種の『インチキ』は政治事情の上ではいつもあることだ。暴動を鎮圧したのが暴徒の一味だったり何かするのである。

 最後に、宗教復興・精神作興の声を利用して類似宗教が進出したという関係当局の見解は、最も天晴れといわねばならぬ。全くそうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出とは、社会的に同じ本質の二つの現象だといっているのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角話題になるものの大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教、ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めとして、天津教、島津治子教、などいずれもそうだ。脱税問題で問題になりかけたり教義についてある種のうわさが流布されたりしている天理教を見てもよい。とに角『類似宗教』乃至類似宗教類似の宗教は、神惟の道や国史的言論と密接な関係があるということを、あくまで重大視せねばならぬ。

 それであればこそ、かえって秘めて類似宗教は大体において不敬問題をひき起しやすいのである。島津治子女史一味の不敬は精神病学専門家の判決(?)によると、精神病に原因するそうで一味の婦人達はにわかに松沢精神病院へ収容された。だが、幾人かの婦人達がある特定の不敬な妄想内容を共通にするということは、恐らく精神病学的に特別な興味をひくものだろう。精神病のこの種の社会的カテゴリーが発見されれば、今後の歴史家は歴史上における反動現象を記述するのに、大変重宝がることだろうと思う。と同時にこの調子で行くと、社会思想を取締るには、すべてこれを社会的宗教的な発狂と診断すればよいことになりそうで、安心がならぬわけであるが。

 島津治子教の不敬は病理現象だとして、天津教の如きは極めて手の込んだ国体的文献学に基づいているらしい。形式からいってまた内容からいってこの教えが不埒であることは、狩野亨吉博士が鑑定し証明した通りだろうと思う。また大本教の不敬についてはあまりに有名だし『ひとのみち』その他のものといえども決してそういう羽目に陥らぬとは断言出来ぬ。
 だが問題は不敬宗教が決して不逞な意図から出たのではなく、かえって宗教復興・精神作興の意図自身から出て来ているものだという点にある。不敬を生んだものはほかならぬ敬虔の強制そのものなのだ。
要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチュアにほかならないのである。だから眼くそが鼻くそを笑うことは出来ない筈である。(完)
データ作成:2009.12 神戸大学附属図書館

引用ここまで。

他の新興宗教同様にひとのみち教団も中身のない新興宗教の一つであり、それを元にして作られたのが

倫理法人会万人幸福の栞の17カ条やモーニングセミナーや各種研修であり

それを利用して仕事の人脈作りの為、或いは人との繋がりを持ちたいと欲している人々の弱みにつけ込んで洗脳し、会費と称したお布施を払わせることにより、上層部の人間が暴利を貪っているのかなーと私は考えています。

そう私が考える根拠としてはPL教団の教理の内容とよく似ていると思ったからです。

ウィキペディア(Wikipedia)
パーフェクト リバティー教団

教えより一部抜粋します。

身の回りに起こる災難や病気などすべての苦痛や苦難は、自分自身の心得違い心の傾き(=心癖)を知らせるために、神が発してくれる警告と考える。

これを「みしらせ」と呼んでいる。
この「みしらせ」を引き起こしている心の癖は何なのか、教団から個人個人に下付されるものが「みおしえ」で、個々の自己表現の上で邪魔となっている心癖を教えてもらうものである。

抜粋ここまで。

これを読んでふと、倫理法人会で使用されている万人幸福の栞に書かれてある一部の内容を思い出しました。

倫理法人会で使用されている万人幸福の栞より一部転載します。

肉体に病気が起こった場合、これは、肉体だけがわるくなった・・・と片付けてよいであろうか。(肺がわるい、胃が痛む、足が自由にならぬとかいう場合)

これまでは、多くは、肉体だけの故障と考えられて、そうした療法が加えられたが、実は体がバイキンにおかされたり、悪くなったりする今一つその奥の原因がある。

それは心に不自然なひがみ、ゆがみが出来たことである。
そのとき病気の原因になっている心のまちがいは、実は、その人の家庭の不和、事業の不振等から来る(というよりも、そうした生活環境とぴったり一致している)もので、

ほんとうは、生活(家庭や仕事)の暗影(不自然さ)が、自分の肉体に赤信号としてあらわれているのである。
そのあらわれ方が、又実に見事に、その心の不自然さをうつしているのである。

それで、病気の根本である心の暗影(生活の無理なところ)を切り取ってしまって、朗らかなゆたかなうるおいのある心になれば、肉体は、自然に、すぐに、直ってしまうものである。

それで、病気は実は、困ったもの、人生の苦しみなどではなくて、有難い自然の注意、天の与えた赤信号であるから、喜んでうけて、間違いを直すべきである。

転載ここまで。

表現は違いますが、結局の所は同じ事をいっているように私には見えます。

実際に

ひとのみち教団パーフェクト リバティー教団(通称PL教団)倫理法人会へと
その教理(一部か全部)が引き継がれているのではないでしょうか。

ただ、洗脳されている人もいればそうでない人もおられるようで

YouTube の動画のコメント欄を見ても多数の低評価や、従業員、または元従業員と思われる人々の紛れもない本音であろうと思われる批判的なコメントが多数見受けられます。

仕事の為、生活の為などに仕方なく従っているだけで、本当に嫌で嫌でたまらないのだろうなと思います。

これまで、何十年も行われてきた日本政府の悪政や天皇家や反日系企業や団体に搾取され、苦しみ続けられてきた庶民が疲弊して精神を病みかけたところに

あらゆる新興宗教がその心の隙きや不安を狙って騙し搾取し、とことん暴利を貪ってきた(いる)のでしょう。

倫理法人会のどの動画を見ても、女性は朝鮮半島式のお辞儀であるコンスをさせられているので、倫理法人会は間違いなく朝鮮半島系団体だと私は思います。

ここは日本なのに、何かにつけてコンスを日本の正しいお辞儀だと偽り普及させようとする、反日朝鮮半島系の人々の悪意を強く感じます。

それらの事もしっかりと踏まえた上で、倫理法人会に入るなり、断るなり、逃げるなりの判断をすることを強く推奨致します。

これはマクドナルドのCM動画です。

【マクドナルドCM】で朝鮮式お辞儀(コンス)をしているとネットで話題

コンスは朝鮮半島の文化の一つなので否定はしませんが、日本に広めたいのならはっきりと朝鮮半島式のお辞儀であることを示した上でする事を望みます。

私は善良に生きる朝鮮半島系の方とは同じ人間として誠実に向き合いますが
明らかに悪意を持って生きる反日朝鮮半島系の人を完全拒否します。

最後にこのブログ記事をご覧いただき、防犯に必要な考え方を身に着けていただければと思います。

朝鮮民族の「恨(ハン)」の概念の本質。一言で言うと、自分がうまくいかないことを他人のせいにすること。

倫理法人会カルト, 宗教, 洗脳

Posted by sanae