第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫第三節
WIKIMEDIA COMMONSより画像を拝借しました。
これは中国の北京周辺中国北部に起源を有する”糖葫芦”(タンフールー)というお菓子です。
※糖葫芦とはサンザシやカイドウの実を数個くしに刺し,砂糖を溶かした飴でくるんだものです。
甘いものが大好きな人には良いかもしれませんが、ものすごぉーく甘いので日本人だと好みがだいぶ分かれるような気がします。
南京大虐殺のレポートの中に表現の1つとして出てきますが、日本では一般的ではないのでイメージしやすいようにトップの写真にしました。
私はここ何日間か原因不明の頭痛と寒気で体調が芳しくなく、思うように更新できませんでした。
やっぱり何かに呪われていた(いる?)のかもしれません。
でも今は”寝たら治る”療法で完全に復活しました。
一応その間、繋ぎでネタ的な記事はUPしましたので、多少は何らかの参考になったかと思います。
以下より南京大虐殺のレポートの第三節より翻訳を再開します。
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【南屠是国共合作的跨世纪大谎】
第一集《南屠馆见闻》
第3节『南屠馆终于开门见客』
笔者:如魚得水
回顾上节主要内容:
1. 毛泽东在所谓南屠的四个月后的1938年5月26号,在延安作了“论持久战”的演
讲,之后写下了“论持久战”,被编进毛泽东选集之中。然而,文中一字未提不久
前的南京曾经发生过大屠杀;
2. 1937年与日军直接交战的蒋介石,也不知道南京有过日军造成的大屠杀;
1960年耄耋之年的蒋介石在台湾接见日本前首相岸信介与松井石根的生前秘书
田中正明时,对以往自己恩将仇报的行为悔恨交加;
3. 南屠馆是在日本极左翼分子田边誠的提议下,拿日本人的税金作为建设资金
建成的;
4. 邓小平是8964北屠场的刽子手,也是1985南屠馆的题字人;
5. 南屠馆这个”爱国主义教育基地”,用篡改、造假以及挪用等卑劣方法串连起
来的虚构历史资料给参观者洗脑,由此造就了一大批爱国愤青。
下面是本节内容:
2016年公祭日的次日(12月14号),也是我在南京逗留的最后一天,南屠馆终
于开门见客了,于是我只好把每天参观一个馆的计划,压缩成三个馆一天了
事。进馆之后才知道,原来三个馆好像是穿糖葫芦似的连在一起的,从第一个
馆进去,从第三个馆出来,中途不能退回。
更让我没有料到的是中途被核查身份证,而不是在进门时查,也就是说如果没
带身份证的话,不是进不去门的问题,是会被盘问甚至被带走的问题。我当然
没有中国人身份证,又不想让横眉立目的工作人员知道我是日本人,所以只好
硬着头皮“闯关”。幸亏我能说一口流利的中文,更多亏一位不放心我独自来南京
的中国人朋友特意从北京飞过来接应我,还陪同我参观并且替我打了马虎眼,
所以没被带走。后来听说别的日本人在参观南屠馆的中途被带到警务室盘查,
还被复印了护照。
南屠馆上午九点开门,我提前十五分钟就到了,只见门外已经排起了长长的队
伍,起初以为这些人和我一样,是因为前两天没能参观成,所以今天都赶一块
儿了呢。但是又觉得这些人似乎哪里有些不对头。经过闲聊才知道,他们是外
地民工,说是因为昨天下雨,今天干不了活所以工地休息。但是工棚没有取暖
设备太冷,为此他们是带着干粮来南屠馆里取暖的。
那天南京的最高温度是8℃,最低温度是-2℃。在簌簌寒风中我和打算进去取暖
的民工们一起排队等待。
第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫第三節
南京大虐殺は中国国民党と中国共産党との政治提携による世紀を跨いだ大嘘です。
第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫
第3節 『南京大虐殺記念館がやっと開館しました』
筆者:如魚得水
前節の主要な内容をおさらいします:
1.毛沢東はいわゆる南京大虐殺の4か月後の1938年5月26日、延安において”持久戦を語る”という演説をした後に”持久戦を語る”を書き上げ、毛沢東選集の中に編入されています。
しかしながら、今より少し前は文中でただの1字も南京でかつて発生した事のある大虐殺の事を取り上げていません。
2.1937年日本軍と直接交戦している蒋介石は、南京で日本軍が作り上げたという大虐殺を知らず、
1960年老年の蒋介石は台湾で日本の前首相の岸信介と松井石根の生前に秘書をしていた田中正明と接見した時、過去に自分が恩を仇で返してしまった事を知り後悔しています。
3.南京大虐殺記念館は日本極左翼グループの田辺誠が提案し、日本人の税金を用いて建設資金とし、建設したものです。
4.鄧小平は六四天安門事件で北京の屠場においては殺戮者であり、1985南京大虐殺記念館を書き記した人でもあります。
5.南京大虐殺記念館というこの”愛国主義教育基地”は、事実を改竄し見せかけの物を作りそれを流用する等の卑劣な方法による
虚構の歴史資料で参観者を洗脳し、そしてまた一大批判をするような愛国ネット右翼を作り上げました。
下記は本節の内容となります:
当初私は、毎日棟を1つずつ参観する計画を立てていましたが、2016年公祭日の次の日(12月14日)、私の南京滞在の最後の日にやっと南京大虐殺記念館が開館したので、
一日で3つの棟をまとめて参観するより他ありませんでした。
施設に入ってようやく、3つの棟が糖葫芦のように連なっており、第一棟に入ってから第三棟から出るまでの間は途中で引き返す事ができないことを知りました。
※糖葫芦とはサンザシやカイドウの実を数個くしに刺し,砂糖を溶かした飴でくるんだお菓子の事です。トップの写真をご参照ください。
さらに私は、途中で身分証を確認されるばかりか、入口に入る時に検査され、もし身分証がなければ入館できないという問題、尋問されさらに連れていかれるという問題を全く予想だにしていなかったのです。
私には当然中国人の身分証は無く、眉をつり上げ怖い目をした係員に私が日本人である事を知られたくなかったので、私は思い切って突き進むしかありませんでした。
幸いなことに私は流暢な中国語を話すことができ、さらに一人で南京に来た私を心配してわざわざ私の応援に北京から飛んで来てくれた中国人の友人が、
私の参観に同行して私の代わりに係員の目をそらしてくれたので、連れていかれずに済みました。
後で別の日本人から聞いた話では、
南京大虐殺記念館で参観している途中に警備室に連れていかれて尋問され、さらにパスポートのコピーをとられたとの事です。
南京大虐殺記念館は午前9時に開館するので、私はその15分前に到着しましたが、門の外にはすでに長い列ができていたので、
最初、これらの人は私と同じように前日2日の間で参観できなかったから、今こうして同じところで一緒に並んでいるのだと思っていました。
ただ、これらの人々はそれとなく、どこか筋違いの人のような感じにも思えました。
少し話してみてようやく、
彼らが地方からの出稼ぎ農民であり、昨日は雨が降っていたので、今日は仕事にならずに休みになりました。
でも、工事現場は暖房がなくとても寒いので、彼らは食べ物を持ち込み南京大虐殺記念館の中で暖を取るつもりで来ている。
との事です。
その日の南京の最高気温は8度で、最低気温は-2度でした。
ザワザワとふく寒風の中で、私は中で暖を取りにいく予定の出稼ぎ農民の人たちと一緒に並んで待っていました。
南屠馆于1985年建成,后来一个馆还嫌不够,在旁边强拆民宅,又盖了两个,
在2007年12月13日,赶在所谓南屠的七十周年那天完成扩建工事,开始对外开
放。两个新馆与旧馆连在一起,里面有多个展示厅和五个电影放映厅,增加工
费4.77亿元人民币,听说其中一部分建筑款来自香港和海外的捐款。
在进入展馆之前有一个长长的甬道和一个能够容纳三万人集会的大广场,设计
者利用人们的视觉效果,达到了既能让人感到阴森恐怖,又能激起民族仇恨的
目的。
南京大虐殺記念館は1985年に建設され、その後一棟では足りず、近くにある民家を強制的に取り壊し、
さらに2棟を2007年12月13日のいわゆる南京大虐殺の70周年のその日に間に合うように、拡張工事を完成させてから一般公開をしたのです。
2つの新しい棟と古い棟は一緒に連なっており、中にはたくさんの展示ホールと5か所の映画上映ホールがあり、
4.77億元の工事費を加算したそうで、聞いた話では、その中の一部分の建築費は香港と海外からの寄付金との事です。
展示館に入る前には一つの長い通路と、一か所の3万人の収容が可能な集会をする為の大広場があり、
設計者の狙いは人々の視覚効果を利用し、暗くて怖い森を彷彿とさせ、民族の恨みを激しく引き起こす事にあります。
※これより以下の文字は資料の説明文であり、筆者のコメントではありません。
2014年、この一つの歴史事件のシンボルは中国が正式に国家公祭日を設立した意義を鮮明に強化させるものです。
習近平はその年の第1回目の公祭日に講話を発表する際に、30万人が虐殺される目に遭った歴史の改竄は許されない。と称しています。
中国に侵略した日本軍が中国の同胞を南京で大虐殺した記念館
中国に侵略した日本軍が中国の同胞を南京で大虐殺した記念館は、
南京市人民政府が、中国に侵略した日本軍が南京で大虐殺した遭難者を追悼する為に設立した遺址型専門史博物館です。
博物館は南京城の西南江東門に位置しており、その年に日本軍が大虐殺した一つの主要地点と遭難者が埋められている地でもあります。
記念館は1985年落成し公開され、1995年、2005年に二回の拡張建設を経て、現在では約7.4万平方メートルを占めるようになり、
建築面積は2.5平方メートル、展開面積は9,800平方メートル、展覧集会を含めて遺址を哀悼する和平公園と収蔵交流等の4つの区域、
その中の展覧陳列と広場の陳列を含めた、遺骨の陳列と史料の陳列の三つの部分があります。
中に10,000余りの歴史資料と文化財が収集されている国家一級博物館であり、全国愛国主義教育の模範を示す基地です。
1995年、記念館は二期工程の建設を開始し、1997年12月12日に竣工しています。
工程は新しく建てられた追悼する広場、大型の彫刻には”古城の災難”、南京大虐殺が発生した時間が刻まれた十字の形の志を記した碑、
遭難した同胞の壁の名簿、記念館の大門には”破損した城門”と貴賓接待室、展覧施設と陳列内容は同時に改められて充実しています。
工程は依然として齐康によって設計されており、青銅の彫刻は吴显林によって設計されています。
保障の為の工程建設は南京が発起した”誰もが中国に侵略した日本軍が中国の同胞を南京で大虐殺した記念館の二期工程に1元寄付しよう”という寄付金を募る活動をし、
100万余りの南京市民がみんなで寄付した160万余りの人民元、香港で募金を募ると、とても大きな反響を引き起こしました。
2005年12月13日、記念館の二期拡張建設工程は正式に基礎を固め、2006年6月26日から拡張建設で閉館し、2007年12月13日に竣工し、総投資4.77億元、建設工程で民間からの寄付金450万元を得られました。
拡張建設工程は華南理工大学の何鏡堂が責任者として設計し、建築構想は
”戦争、殺戮、平和”の3つの概念が展開しています。
拡張工程は古い棟から東に向かって新しい棟を建て、西に向かって増設するのは祭場で、瞑想するホールと平和公園など、さらに元の棟の周囲を取り囲んだ塀は取り壊し、
世間の人に警告を与える鐘の位置を調整し、追悼する広場を拡大し、古い棟を改造し、”一万人の死体を埋葬する穴の遺跡”として水を隔てて保護しています。
拡張建設後は、記念館が占める面積は2.2ヘクタールから7.4ヘクタールにまで拡大され、総建築面積は22,500平方メートルまでに拡大しました。
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今回の翻訳はここまでにします。