第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫第三節3

南京大虐殺中国共産党, 捏造, 日本軍

f:id:kinjirou9:20190330110612j:plain

※これは中国が記載した当時の蒋介石の焦土戦術の書籍の画像です。
簡体字で書かれていますので、それほど昔ではなく割と最近書いたものだとわかります。

レポートの中にある1つの表現の補足説明として書いています。

中国で使用されている字には繁体字簡体字があります。

下記の画像をご参照ください。

ライセススタッフが書くブログ。
中国語フォント 使用時役立つ情報まとめ より拝借しています。

f:id:kinjirou9:20190330132527j:plain

簡体字の詳しい説明はこちらをご覧ください。

簡体字
ウィキペディア

より一部抜粋。

簡体字(かんたいじ、中国語: 简体字、拼音: jiǎntǐzì)または規範字(きはんじ、规范字、拼音: guīfànzì)は、1950年代に中華人民共和国で制定された従来の漢字を簡略化した字体体系である。

抜粋ここまで。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下より翻訳の続きを再開します。

f:id:kinjirou9:20190330104816j:plain

终于可以进入避风的馆内了,为什么我一定要在与“南京陷落”同一天的12月13
日造访南京呢?一来是想看看公祭日这一天到底有什么政治活动,二来是想体
会一下这一天到底有多冷?您或许不解其意,那是因为三十多年前的1985年,
我曾经听好几位南京老兵说过:“他们在1937年12月13号进城那天南京特别冷
,但是却在一个巷子里看到许多人一丝不挂地坐在那里,因为这个情景太不可
思议了,通过翻译一问才知。国军在仓惶逃跑时强行让老百姓与他们换衣服,
百姓当然不肯,于是国军不由分说直接把不脱衣服的人打死了。顺着百姓的目
光,果然不远处不但有一大堆军服,还有被击毙的死尸,死尸也是赤身裸体。
最后老百姓还说,不换衣服的话会被国军打死,换上国军衣服的话可能会被追
来的日军打死,不穿衣服的话可能会被冻死,怎么也是一死,与其被打死还不
如冻死”。他们的房子被国军烧了,衣服被国军抢了,现在只能紧挨着坐在一起
抱团取暖。
通过他们的话,可以想象国军也知道日军是不杀老百姓的,否则没必要与百姓
换衣服;同时鄙视国军在对日侨和日军疯狂作恶之后,为了自身逃命而对无辜
百姓采取的兽行。

 

ようやく館内に入って風を避けられるようになりました。
どうして私が”南京没落”と同じ日の12月13日に南京に訪れたと思われますか?

一つには交祭日のこの日に一体どのような政治活動があるのか、
二つには
この日の天気はどのくらい寒いのかを味わってみたかったからです。

みなさまには理解しがたい話かもしれませんが、あれは30年余りほど前の1985年、私はかつてたくさんの南京の老兵から聞いた事があったのです:

”1937年12月13日において、彼らが城に入ったその日の南京は特別に寒かったのに、かえって路地の中にたくさんの人が真っ裸でそこに座っており、

これらの情景をとても不思議に思っていたのですが、通訳者を通してようやく知ることができました。

国軍があわてて逃げる際に、無理やり民間人の衣服を着替えさせようとしましたが、民衆は当然承知しなかったので、国軍は有無を言わさず直接、衣服を脱がない人を打ち殺しました。

民衆の目線を追うとやはり遠くない場所にたくさんの軍服が山ほどあり、さらに打ち殺された死体すらも裸でした。

付近の庶民はさらにこう言います。

服を着替えなかったら国軍に打ち殺され、国軍の服に着替えたら多分追ってくる日本軍に打ち殺され、服を着なかったら多分凍死するので、

どのみち打ち殺されるなら凍死した方がマシである。”

彼らの家は国軍に焼かれ、衣服も国軍に奪われ、今はただ一緒にくっついて座り、暖を取るほかなかったのです。

彼らの話を通して
国軍でさえも日本軍が民間人を殺すことはないので、庶民を着替えさせる必要はないということを知っていたと
同時に

自分らが逃げる為に、在留日本人と日本軍が狂気じみた悪事を働いたのだと蔑視させようと、罪のない私達同胞に対して野蛮で残忍な行為をしたのではないかと想像できます。

在南屠馆入口不远的醒目之处,有一个反复播放着的视频,是共军英勇战斗的
场面。看到此,我想“八十年前的中国就已经掌握了如此先进的录像技术吗?这
段视频如果真的存在的话,应该早就公开了,因为当时随军的日方记者和好多
国家的外国不但拍摄了许多照片,还拍摄了不少视频,但是我怎么没看见过这
个视频呢?
其实,共军在南京英勇战斗的故事是不存在的,因为当时日军是与国军交战,
也就是史上有名的淞沪会战。淞沪会战的发生原因简单说来是因为蒋介石违反
1932年5月5号双方签署的《淞沪停战协定》,派遣全副武装德式装备的蒋介石
精锐部队五万人马于1937年8月13号突然闯入日领馆和日侨居住地杀人越货。
只有四千驻军,并且没有防备的日军不得不自卫还击。
惨烈的淞沪会战从那天开始,寡不敌众的日军一面回击侵略者,一面等待援军
,苦战三个月终于战胜了兵力超出自己好几倍的国军。被日军打得溃不成军的
国军在11月9号开始向南京逃窜,然后就是所谓的“南京保卫战”。这里边共军玩
弄的是借刀杀人的诡计,并没与日军直接交战。所以说这个反复播放的场面根
本不可能是真实影像,大概是中国某个黑白电影里的一个片段吧。
八十年代,我曾经听南京老兵说过这样的事情:
蒋介石为了不给日军留下任何可以利用的东西,除了抢走老百姓的粮食之外,
还实行了坚壁清野、自我焦土的战术,烧毁的不仅仅是沿途村庄,连通往南京
途中的炮兵学校、步兵学校、近代科学兵器学校、警察训练学校、农事研究实
验所、兵舍和官舍、甚至蒋介石的夏季临时司令部等,全都化为灰烬。国军破
坏的不光是建筑物,沿途的桥梁和公路全部彻底毁坏。资料显示,国军在南京
自我焦土的代价,折合当时的美元大约三千万。
此外,为了防止日军当掩体,南京城周边方圆两公里、南京市半径16公里的树
木、竹林、庄稼、花草也被一扫而光。更恶毒的做法是国军将砍伐的竹子削尖
,放在路上当作扎脚、扎轮胎的路障。此外,国军还在身后的水井等水源里面
投毒,日军一边清除路障,一边搭桥修路,一边测试毒物,并且安插木牌提醒
中国百姓不要饮用毒水,此事在第10节中图文并茂叙述,此处从略。
日军追赶十恶不赦的歹徒,一路上看到的是满目疮痍、遍地狼烟、难民四逃的
凄惨景象。在经过有人的村子时,村民说“国军不但烧他们的房子,还抢他们的
粮食,并且杀他们的乡亲”。村民看到日军时就好像看到救星一样,对于日军去
追惩这些歹徒的行动表示了极大的感谢。

 

南京大虐殺記念館の入口の遠くない場所の目立つところには、ある一つの繰り返しの再生をしている動画があり、それは共産党軍の勇敢な戦闘の場面のものでした。

これを見て、私は
80年前の中国にはすでにこのような先進的な技術はあったのだろうか?

この動画が本当に存在していたのならば、もっと早く公開していた筈であり、
当時の従軍していた日本人記者と多くの外国の記者たちは沢山の写真を撮っていて、

さらに撮影した動画は少なくないのに、どうして私はこの動画を見たことがなかったのだろうか?と考えました。

実のところ、南京においては共産党軍の勇敢な戦闘の物語は存在せず、当時の日本軍は歴史上で有名な第二次上海事変で国軍と交戦しています。

第二次上海事変の発生原因は簡単に言うと、蒋介石が1932年5月5日に双方が署名している≪上海停戦協定≫に違反し、

完全武装のドイツ式装備を派遣した蒋介石の精鋭部隊5万の軍隊が1937年8月13日に突然、日本領事館と日本人の居住地に乱入して人殺しと強奪をしたからです。

4,000の駐屯軍だけしかなく無防備だった日本軍は、自衛のために反撃せざるを得なかったのです。

悲惨な第二次上海事変はその日から始まり、
多勢に無勢であった日本軍は一方では侵略者に反撃を加え、一方では援軍を待っていて、三か月苦戦してようやく、自分たちの兵力の何倍もの国軍を打ち破ることができました。

日本軍に潰された国軍が11月9日から南京に逃げ始めたモノが、その後のいわゆる”南京防衛戦”ということになるのです。

それで、この辺りが共産党軍の日本軍と直接交戦せずに自分は表に出ず他人を唆して人をやっつけるという策略となるのです。

ですから、この繰り返し放送される場面が真実の映像であるはずがなく、おそらくは中国のモノクロ映画の中の一場面なのでしょう。

80年代、私はかつて南京の老兵からこのような話を聞いたことがあります:

蒋介石が日本軍がいかなるモノも利用できないように、民衆から奪い取った食料を除いて、

さらに防御施設を堅固にし,物質・民衆を疎開させ,家屋や木などを取り払い,敵の攻撃を困難にさせて自ら焼け野原となるような戦術をし、

焼き払ったのは沿道の村だけではなく、南京に通じる途中にある砲兵学校,歩兵学校、近代科学兵器学校、警察訓練学校、農事研究実験所、兵舎と官舎、蒋介石の夏季の臨時司令部などまでも全て灰燼に帰しました。

国軍に破壊されたのは建物のみならず、道沿いの橋と道路も全部壊れました。

資料がはっきりと示しているのは、国軍が南京において自ら焦土としてきたものの代価は、当時の米ドル約3,000万に相当します。

この他にも、南京城周辺2キロメートルの日本軍が敵弾から守るための設備としていたもの、南京市の半径16キロメートルの樹木、竹林、農作物や草花も一掃されました。

さらに、国軍は伐採する竹を削ってしまい、道に置くことで足を刺すようにし、タイヤをパンクさせるバリケードとするような悪辣なやり方をしたのです。

この他にも国軍がさらに背後の井戸などの水源に毒物を入れたので、

日本軍がバリケードをクリアしながら、橋を架けて道をつくり、毒物をテストするばかりか木の札を立てて、中国の民衆に毒水を飲まないように注意を促していました。

この事は第10節の中で盛りだくさんの写真・図表と文章でも叙説するので、ここでは省略します。

 

日本軍が極悪非道の悪党を追っていく中で見たのは、至るところにある戦争・災害の傷跡であり、一面に狼煙が立ちこめて難民が逃げまどう悲惨な光景でした。

村民が言うには、国軍が人のいる村を通る時、彼らの家を焼くだけではなく、彼らの食料を強奪するばかりか彼らの故郷の人までも殺していったそうです。

村民が見た日本軍はまるで救いの星そのものであり、日本軍がこれらの悪人を追跡して処罰する行動に対して多大な感謝を表しています。


下图桔色部分就是当时被焦土的地域☟

下の図のオレンジ色の部分が当時の焦土地域です。

 

f:id:kinjirou9:20190330110318j:plain


下面图片是1937年12月当时,日本朝日新闻三次报道关于“蒋介石焦土政策”的
报道☟

下の画像は1937年12月当時、日本の朝日新聞の3本の記事で報じているのは
”蒋介石の焦土政策”の報道となります。

 

f:id:kinjirou9:20190330110445j:plain

下面是中国记载当时蒋介石焦土战术的书籍,因为印刷使用的是简体字,所以
此书应该是五十年代~八十年代的大陆书籍☟

下は中国が記載した当時の蒋介石の焦土戦術の書籍ですが、印刷に使用しているのは簡体字なので、この書籍は1950年代から1980年代の大陸の書籍になる筈です。

 

f:id:kinjirou9:20190330110612j:plain

日军一路军纪严明,不抢不偷不扰民地向南京进军,却奇怪地看到了中国人老
百姓诚惶诚恐地跪在路边的情景,日军没有骚扰百姓,而是继续急行军赶路☟

 

日本軍は軍紀が厳正なので、略奪せず、盗まず、人民に迷惑をかけずに南京に進軍しているのに、中国の庶民が恐る恐る道端にひざまずく不思議な光景がありますが、日本軍は民衆を煩わせる事無く、急いで道を行進し続けています。

f:id:kinjirou9:20190330110745j:plain

f:id:kinjirou9:20190330110806j:plain

f:id:kinjirou9:20190330110837j:plain

f:id:kinjirou9:20190330110911j:plain

 

f:id:kinjirou9:20190330110935j:plain

 

f:id:kinjirou9:20190330111003j:plain

f:id:kinjirou9:20190330111025j:plain

f:id:kinjirou9:20190330111048j:plain

今回の翻訳はここまでにします。

中国共産党の隠蔽捏造工作は本当にえげつないですね。

頭のオカシイ反日在日朝鮮半島系の人とやり方がそっくりです。

一つの関係のない場面を繰り返し放送するという手口なんて、正しく反日デモの偏向報道と同じやり方ですね。

この捏造された南京大虐殺なるものの当時の動画を見つけましたので、ご覧いただければこのレポートの内容の全体像がよりわかりやすくなるかと思います。

当時の中国の子どもたちが屈託のない自然な笑顔で遊んでいるのがはっきりと見えます。

下記は動画をUPした人がそれぞれ違うのではっきりとはわかりませんが、基本的には同じものだと思います。

短縮版と完全版(多分)のようです。

戦線後方記録映画「南京」1938年(短縮版)

戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi