第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫第二節
第一集の中に第一節、第二節とあるのに気づき、少し訂正しました。
※3月12日追記
第一集、第二集ではなく第一節、第二節・・・と続きますので、そこまでは膨大ではないようです。
それでも、ものすごぉーく膨大な量になるので、意識が遠のきそうです。
直訳だと自分でもよくわからない難解な日本語になるので、意訳しています。
私の怪しい日本語訳においても、なんとかわかりやすくなるように、適当に改行や重要な部分を太字にするなどしています。
今回以降は第一集の第二節の翻訳の掲載を始めます。
【南屠是国共合作的跨世纪⼤谎】
第⼀集《南屠馆⻅闻》
第2节『等待南屠馆开⻔』
笔者︓如⿂得⽔
回顾上节主要内容︓
1. 南京市内到处都是“勿忘国耻 圆梦中华”的政治标语牌︔
2. 南屠馆在2016年国家公祭⽇这⼀天竟然闭馆,那天封锁了通往南屠馆的所有
道路,连地下铁也被封站︔
3. 傍晚终于解除戒严,12⽉13号那⼀整天警察林⽴、戒备森严、如临⼤敌︔
4. 南京在1950年就在⾬花台建⽴了屠杀纪念馆,但是当时纪念的是被国军屠杀
的共军。
以下是本节内容︓
此南京之⾏不算路上我只有三天时间,就这么过去了两个整天,但愿明天能够
开⻔。
在等待南屠馆开⻔的功夫,回顾了⼀下⾃⼰对南屠馆的记忆。1952年出⽣在中
国的我,⽂⾰前上的初中,虽说从1966年⽂⾰爆发那年就“停课闹⾰命”了,然
后⼜是上⼭下乡,没有学到多少知识,但好⽍也算是上过⼤学的⼈,并且接受
的洗脑教育还算⽐较完整。然⽽,⼀直到我离开中国的1978年,也没听说过还
有第⼆个“南京⼤屠杀”,学校课本上没有。中国历史上最重要的两个⼤⼈物,⽑
泽东和蒋介⽯也都好像不知道有这么⼀回事,因为他们⼆⼈从来没有提起过“南
京⼤屠杀”。
先说⽑泽东,在所谓的“南屠”发⽣四个⽉之后的1938年5⽉26⽇,⽑泽东曾在延
安做过⼀场关于抗战的演讲,演讲会上⽑说“⽇军与中国军队作战,包围多但歼
灭少”,他不但只字没提有关⽇军屠杀南京平⺠的事情,还指出⽇军作战⼒度不
够,⾔外之意是说⽇军过于妇⼈之仁,没有国军那么⼼狠⼿辣。这个内容后来
被编⼊⽑泽东选集的《论持久战》⼀⽂当中。如果当年真的发⽣过骇⼈听闻的
南屠,⽑泽东在其后不久的五⽉能够忽略不提吗︖
下⾯是有关信息,请各位看官⾃⾏判断☟
南京大虐殺は中国国民党と中国共産党との政治提携による世紀を跨いだ大嘘です。
第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫
第二節 『南京大虐殺館が開くのを待つ』
筆者:如魚得水
前節の主要な内容をおさらいします:
1.南京市内はいたるところに”国辱を忘れず 中国の夢を叶えよう”という政治的看板があります。
2.南京大虐殺紀念館は2016年において国家公祭日に突然閉館し、その日は南京大虐殺紀念館の周りの全ての道路、地下鉄でさえも封鎖されていました。
3.夕方についに厳戒が解除されるまでは、12月13日のその日は警察が林立し、厳重な警戒があり、装備がとてもものものしい状態でした。
4.南京は1950年に雨花台に南京大虐殺紀念館が建てられたが、当時記念しているのは、国軍に虐殺された共産党軍の事でした。
以下は本節の内容:
この私の南京に行くまでの3日間で、まる2日間を費やしましたが、明日は開館していることを願って
南京大虐殺紀念館が開館するのを待ちつつ、私自身の南京大虐殺紀念館に対する記憶を振り返ります。
1952年中国で生まれた私は、文化大革命の前は中学生でした。
1966年に勃発した文化大革命の騒動により、中国全土の学校は休校になりました。
都市部の中学生、高校生は農山村に赴き、または定住して農業生産に従事することになってからは、(勉強できないから)少しの知識も得ることができず
どちらかというと、どうにか大学で学んだことのある人から受ける洗脳教育が非常に充実していました。
しかしながら、私が中国を離れる1978年までずっと、第二の南京大虐殺の事を聞いたことがなく、学校の教科書にも書いてありませんでした。
中国の歴史上最も重要な2人の大物、毛沢東と蒋介石ですら、そのような事を知らないかのように、彼ら二人は”南京大虐殺”をとりあげた事がありませんでした。
先程の毛沢東はいわゆる”南京大虐殺”が発生して4ヶ月後の1938年5月26日、毛沢東はかつて延安(陝西省北部の都市で、抗日・革命の根拠地)において、
一度、抗日戦争についての講演をしたことがありますが、講演会において毛沢東は、
日本軍が南京の平民を虐殺したという、文字すら取り上げたことがない上に
”日本軍と中国軍隊が戦い、日本軍は包囲は多いが殲滅は少ない”と述べ、さらに日本軍の作戦力の程度が不十分と指摘したことから
その行間には日本軍はめめしい恩情、つまらぬ慈愛が過ぎる、国軍はそんなに残忍で手口があくどいものではなかった。
という意味を含んでいたと言われています。
この内容はこれから紹介する毛沢東の選集にある《論持久戦》の中に織り込まれています。
もしその当時、聞く人をびっくりさせる南京大虐殺が起こっていたならば、毛沢東はその後すぐの5月の時点で、それをないがしろにして取り上げないなんて事ができるでしょうか。
下にはそのニュースがありますので、皆様各自で見てご判断ください。
(資料写真)1938年5月26日、毛沢東は延安で講演している《論持久戦》。
資料図:毛沢東が延安の窟洞(ヤオトン)で《論持久戦》を書いている。
1938年に発行された毛沢東《論持久戦》の本の一部分。
《論持久戦》原版本
資料図:別に出版された同じ内容の本《論持久戦》。
请参阅《论持久战》中的有关内容☟
这是从⽇本雅⻁⽹上找到的有关内容,添附其中的四张截图供参
考。⽽中国百度⽹上的同样信息已被删除,⽬的是否掩盖真相可
想⽽知。
《論持久戦》の中にある内容を参考にご参照ください。
これは日本のヤフーからインターネット上で見つけた内容に関するもので、その中に添付している4枚の写真(文章の)があります。
中国の百度(検索サイト)でインターネット検索しても、それらの情報は真相を知られないようにする為の隠蔽工作により削除されています。
以下が本の内容の文章の画像となります。
以下が本の中の内容の翻訳になります。
毛沢東主席《論持久戦》の文章の中に書いてあります。
ー戦略と戦役からいうと、敵は10ヶ月の侵略戦争中、すでにたくさんの間違いを犯していた。
その大きなものが5つある。
1つ目は兵力を徐々に増やす。
これは敵という立場から、中国に対する見通しが十分ではない上に、自分たちの兵力が不足しているということを表している。
敵は私達をずっと見下しており、東四省が便利になり、冀東が加わってから北側の占領を調査したことで、これで敵の戦略偵察は全て事足りるとしていたようだ。
それらの調査から彼らが得た結論は:中国はバラバラである。と。
これに基づいて中国は攻める値打ちもなく、いわゆる速決の計画で出撃しても、少しの兵力で私達を叩き潰せるだろうと企てていた。
10ヶ月もの期間、中国がこの様に大きい団結と抵抗力があるとは、彼らは思いもせず、彼らは中国がすでに進歩的な時代に位置しており
中国がすでに先進的な党派としての存在である事、先進的な軍隊と人民である事、これらの点を忘れてしまっている。
駄目な時になってからようやく徐々に兵隊を増やすと、十数の軍隊を一度、もう一度と、三十まで増やす。
そうやって更に前進しなければならなくなると、これ以上は増やすことはできない。
ソ連との対立の時と同様に、端から人材不足なので、日本軍の最大の出兵数と最後の進行点は一定の制限を受けなければならなくなる。
2つ目は重点とする攻撃の方向性がない。
台児荘の敗戦後の教訓を総括し、主力を徐州の方向へ集中したが、この一時的な変更は誤りであった。
3つ目は協同戦略をとらない。
敵となる華中、華北の両方の集団の中、どの集団の内部も大体は協同戦略をとっているものだ。
例えば、津浦南段が面積の小さな蚌埠を攻める時に、縦貫線(北段)は動かない。
縦貫線(北段)が台児荘を攻める時、縦貫線(南段)は動かない。というように。
2つの日本の組織が不愉快な目に遭うと、陸軍大臣は巡視で来て、参謀総長は指揮で来た。
つまり、それぞれが自分の行為のめざす方へ向いており、ちょうど同時期に、日本の地主資産階級と軍閥の内部がその少しの間だけ協同したのである。
このように、日本地主資産階級と軍閥の内部には深刻な矛盾が存在しており、戦争での不協同はその具体的な表現の一つである。
4つ目は戦略の時期を逸している。
太原で二ヶ所占領していると侵攻は中断することになる。主な原因は兵力不足と戦略追撃隊がないという事。この点は今の南京での状況を表現しているように見える。
5つ目は包囲は多いが殲滅は少ない。
台児荘戦役以前は、上海、南京、滄州、保定、南口、忻州、臨汾の諸種の役目、撃破者が多い、捕獲者が少ない、指揮をするのが下手であるからだ。
これら5つ
・兵力を徐々に増やす。
・重点とする攻撃の方向性がない。
・協同戦略をとらない。
・戦略の時期を逸している。
・包囲は多いが殲滅が少ない。台児荘戦役以前は日本の指揮をするのが下手である。
1938年5月、毛沢東主席が《抗日游击戦争の戦略問題》の総括の文章の中で、
日本軍が中国を侵略する時に犯した間違いを指摘している
:日本の中国の力量に対する見通し不足と日本軍の軍閥の内部にある矛盾、下手な指揮が生み出した多くの間違い
例えば兵力を徐々に増やす、協同戦略をとらない、その時期の重点とする攻撃の方向性がない、それらの作戦が包囲して殲滅する機会を失った事など。
毛沢東主席が日本軍の中国侵略で間違いを犯した事を分析した目的は
軍事上の”己を知り彼を知らば,百戦危うからず”という事であり、毛沢東主席は同時に日本軍の長所と強い項目も分析している。
最後に日本軍の長所を見よう。
毛沢東主席は《論持久戦》において文中に書いている:
日本軍隊の長所、その武器において、その官兵の共用 その組織性、その過去に負け戦をしたことがない事から形成されている自信、
その天皇とバケモノ(八百万神?)に対する盲目的な崇拝、その誇り高く高い自尊心による中国人に対しての軽視など。
これは日本軍閥が長年行ってきた独断的な教育と日本民族の習慣が作り出したものだ。
わが軍は殺傷が甚だ多くて、捕虜が甚だ少ない現象があり、これらは過去に多くの先人達の見通しが足りなかった事が主な原因であろう。
日本軍の中国侵略において”私達の優れている点”の部分で論及しており、毛沢東主席は文の中で更に述べている。
敵の戦略戦役指揮の多くが下手であるが、ただその戦闘指揮、すなわち部隊戦術と小兵団戦術、部隊戦術と小兵団戦術、むしろ非常に優れたところがあり、この点については私達は彼らから学ぶべきである。
毛沢東主席は日本軍の中国侵略から”己を知り彼を知らば”の分析により、十分なくらいまでに、中国軍民が抗日戦争を完成させるという偉大な事業を完成している。
最終的には勝利を得て実践でも証明しており、指導作用は非常に重大である。
毛沢東主席はこの世界で最も偉大なる軍事人物として呼ぶにふさわしいといえる。
ここから下は筆者のコメントになります。
⽑泽东之所以这样说、并且被当作“放之四海⽽皆准的真理”写下来,并⾮替“⻤
⼦”说话,⽽是对当时真实战况的具体分析。
⽂⾰中我们能够接触到的书,除了《⽑泽东选集》就是《⽑主席语录》了,乃
⾄我们那个时代的⼈们对此记得滚⽠烂熟、倒背如流。
如果说⽑泽东⼿下的共军因为没怎么与⽇军打过交道,所以不了解情况的话,
那么蒋介⽯⼿下的国军可是⽐较⻓期地与⽇军直接交过战的啊︕然⽽,1937年
12⽉17号,蒋介⽯在汉⼝发表《告全国国⺠书》、1938年4⽉蒋介⽯宣布《抗
战建国纲领》,哪⼀次也没有提到南屠。当时何应钦的《军事报告书》中也没
有⼀⾏字提到南屠。
从1937年12⽉1⽇到1938年10⽉24⽇,包括了所谓的南屠六周在内的⼏近⼀年
期间,国⺠党的国际宣传处在汉⼝举⾏过三百次记者招待会,每次平均有35名
的外国记者及外国使馆外交官参加。在这三百次的记者招待会上,蒋介⽯仍然
⼀次都没有提到过“南京⼤屠杀”,也⼀次都没有谈到过“对俘虏的⾮法杀害”之类
的事情。倘若南屠真有其事的话,即使蒋介⽯羞于开⼝,中外记者们也会毫不
留情地提出质疑的。
1960年,原上海派遣军总司令松井⽯根的秘书⽥中正明陪同原⽇本⾸相岸信介
因国事赴台湾,会⻅蒋介⽯总统的当时,何应钦等要⼈也在场奉陪。会议结束
后蒋介⽯与⽇本国宾⼀⼀握⼿,当⾛到⽥中正明跟前时,⽥中郑重其事地⾏军
礼之后对蒋说︓“在下曾经与蒋总统有过⾯识”,蒋问︓“何时⻅过⾯啊”︖⽥中回
答︓“1936年2⽉陪同松井⽯根⼤将拜访阁下时”。听到松井⽯根这个名字的⼀瞬
间,蒋的脸⾊突变,他紧紧握住⽥中的⼿,红着眼圈含着泪说︓“我愧对松井⼤
将啊︕他⽣前如痴如醉地热爱着⽀那,全⼒以赴地⽀持孙⽂的⾰命,⽆微不⾄
地关照当时还是留学⽣的⾃⼰……南屠不可能发⽣,如果有的话何应钦将军⼀
定会在军事报告中记载的,当时我⼀次也没有听说过有这种事情……松井⽯根
总司令冤罪啊︕他背负了屠杀⼆⼗万平⺠这个莫须有的罪名……”。在说到“⾃⼰
对松井⽯根总司令恩将仇报”时,⼋⼗岁⾼龄的蒋介⽯悔恨交加的真情流露,在
场者全都被震惊了。但因为席间禁⽌摄影,所以没能留下照⽚☟
https://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/07c55f5c57b95d4a09d5512a4dda9f6f
毛沢東の本でもこのように言っており、好評の作品である
”解放された全中国にして皆が確実に物事を成し遂げる事が正しい道理である。”
で書き残して おり、決して”鬼畜”に代わって話しているのではなく、当時の本当の戦争のことを具体的に分析しています。
文化大革命中に私達が接触する事ができた本は、《毛沢東選集》或いは《毛主席語録》のどちらかであり
当時の私たちは、この記憶をすらすらと滞りなく完璧に話せます。
もし、毛沢東の手下の共産党軍が日本軍と戦った事がなければ、そのことに関して経験や知識はないでしょうが、蒋介石の手下の国軍は比較的長く日本軍と直接戦った事があるじゃないですか !
しかしながら、1937年12月17日、蒋介石は漢口で《全国国民に告げる本》において発表しています。
1938年4月蒋介石が宣布した《軍事報告書》の中でさえも南京大虐殺の時は一文字もありません。
1937年12月1日から1938年10月24日に至るまで、いわゆる南京大虐殺六周年の間の内の1年近くの期間に
国民党の国際宣伝所が漢口において、300回を超える報道関係者の招待会を挙行しましたが、毎回平均35人の外国の記者及び外国大使館の外交官が参加しています。
この300回を超える報道関係者の招待会において、蒋介石は依然として一度も”南京大虐殺”の事を取り上げた事がなく、一度も”捕虜に対する不法な殺害”の類の事情を語った事がありません。
もしも南京大虐殺が本当にあった事実であれば、蒋介石はたとえ物を言うと決まりが悪くなるとしても、中国、外国の記者たちでさえも容赦せず質疑をするものです。
1960年、元の上海が派遣した軍総司令松井石根の秘書の田中正明が、元日本首相の岸信介を伴い国事で台湾に赴き、蒋介石総統と会見した当時に、何 応欽ら要人も会場にお供していました。
会議が終わった後、蒋介石と日本国賓が一人一人と握手し、田中正明の前に行き着いた時に、田中はその事を丁重に行軍しお辞儀をした後
蒋介石に対して、私めはかつて蒋介石総統とお会いした事がありますと言うと
蒋介石はいつお会いしましたか?と田中に聞いたので
田中は1936年2月に、松井石根大将に付き添って閣下をお訪ねした時です。と答えました。
松井石根という名前を聞いて一瞬の間、蒋介石の顔色が変わり、彼は田中の手をきつく握り、目の周りが赤くなり目に涙を浮かべ、私は松井大将に対し恥じています!
彼は生前、支那を心から愛していますと酔いしれ、全力で赴いて孫文の革命を支持し、当時まだ留学生だった私を至れり尽くせり面倒を見てくれたのです。
南京大虐殺なんて起こるはずがない、もしそんな事があれば、何 応欽将軍は必ず軍事報告書の中に記載します。
当時私はそんな事があったなんてただの一度も聞いた事がありません。
松井石根総司令は冤罪です!彼は20万人の民間人の虐殺をしたという謂れ無い罪名を背負わされたのです。
私自身は80歳の高齢である松井石根総司令に対し恩を仇で返してしまった時、悔やむと同時に真情が顔に表れたので、会場にいた者全員が驚愕していました。
会場の席は撮影禁止でしたので、その時の写真は残っていません。と話していました。
https://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/07c55f5c57b95d4a09d5512a4dda9f6f
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結構な量の翻訳で意識が朦朧としてきましたので、今回はここまでにします。
各国政府と支配者層の悪人どもは、私達庶民をマスコミや学校教育で洗脳し、国単位でいがみ合わせる事で戦争を起こそうとしたり、その利権でボロ儲けしています。
私たち庶民が真実を知り、長年の洗脳から完全に抜け出して、国籍、信条、性別、年齢問わず、庶民同士で仲良く一致団結して平和で幸せに生きられる世の中にしていくしか道はないと思っています。
参考に下記のブログ記事をお読みいただければと思います。
RAPT×読者対談〈第42弾〉イルミナティが国民を洗脳する方法。
RAPT×読者対談〈第72弾〉この世の支配層が大金をぼったくる仕組み。