第一集≪南京大虐殺館を見たり聞いたりして得たもの≫第三節4
久々に南京大虐殺の翻訳の続きを再開します。
12月9号日军兵临城下,松井石根总司令下令空投劝降书,要南京卫戌司令唐生
智“打开城门,和平解放南京”,一面保护南京郊外的孙文慰灵庙和中山陵,一面
向城内空投中文的劝降讲和传单=《劝降书》
《劝降书》内容:百万日军已席卷江南,南京城处于包围之中,由战局大势观
之,今后交战有百害而无一利。惟江宁之地乃中部古城,民国首都,明孝陵、
中山陵等古迹名胜蝟集,颇具东亚文化精髓之感。日军对抵抗者虽极为峻烈而
弗宽恕,然于无辜民众及无敌意之中国军队,则以宽大处之,不加侵害;至于
东亚文化,尤存保护之热心。贵军苟欲继续交战,南京则必难免于战祸,是使
千载文化尽为灰烬,十年经营终成泡沫。故本司令官代表日军奉劝贵军,当和
平开放南京城,然后按以下办法处置。
12月10号正午期限过后,在没有收到劝降答复的点日军一边保护五重塔等历史
文化遗产,一边开始攻城。当时空中拍摄的南京的老照片☟
12月9日日本軍は城下に近づき、松井石根総司令は降伏勧告書を空中に投下し、南京衛生司令官の唐生智に”城門を開けて南京を平和に開放しなさい”、南京郊外の孫文慰霊廟と中山陵を保護しながら、城内に向かって中国語の勧降講釈とビラを空中に投下しました=≪降伏勧告書≫
≪降伏勧告書≫の内容:100万の日本軍はすでに江南を席巻し、南京城は包囲の中にあり、戦局の大勢から見れば,今後の交戦は百害あって一利なしである。
惟江寧の地は中部の古城であり、民国の首都、明孝陵、中山陵などの古跡名勝が一か所に群がり集まっており、東アジア文化の真髄を感じる。
南京城を平和的に開放すれば、これからは以下の方法で処理する。
日本軍は抵抗者に対しては極めて厳しくし容赦しない。
何の罪もない民衆及び敵意のない中国軍に対しては、寛大な措置をとり、侵害しない;特に東アジアの文化の保護を熱心にする。
貴軍が戦い続けたいと望むならば、南京は決して戦禍を免れず、千年の文化を灰にすることになり、10年という歳月の運営は水の泡となるだろう。
それ故に本司令官は日本軍を代表して貴軍を勧告した。
・・・・・・・内容説明ここまで
12月10日正午の期限が過ぎた後、投降勧告の答えがない時点で、日本軍は五重塔などの歴史文化遺産を保護しながら、城を攻略し始めました。
当時、空中で撮った南京の古い写真です。☟
守城司令唐生智对日军司令松井石根的劝降书置之不理,却反其道而行之,扔
下城内二十万百姓和五万残兵败将自己逃出城去。
有人不正视事实,硬要说“唐生智是守城英雄”,还说“国军与日军的作战特别英
勇”,实际当中,他们不是对日军英勇,而是对自己弟兄特别残忍,例如为了争
夺逃路,兄弟之间互相残杀;再例如督战队,可以对逃兵格杀勿论。关于当时
惨烈的情景,请参阅第4节当事人的回忆。
从下面两册曾经在中国大陆出版发行过的书籍当中能够了解当时的真实情况☟
城を守る司令官の唐生智は、日本軍の松井石根総司令の降伏勧告書に対して無視して取り合わず、なんとしたことか反対の道を行き、城内の20万の民と5万の残兵を捨てて自分は城から脱出しました。
ある人は事実を直視せず、敢えて”唐生智は城を守る英雄です”と言い、さらに”国軍と日本軍の戦いはとても勇敢だった”とまで言っていました。
実際のところ、彼らは日本に対して英雄ではなく、自分の兄弟(同胞或いは仲間)に対してとても残酷で、例えば逃げ道を争うために兄弟の間で殺し合いをし、また例えば監督する戦隊の脱走兵を切り捨てても構いませんでした。
当時の悲惨な光景については、第4節の当事者の回顧をご参照ください。
かつて中国大陸で出版された、下の二冊の本の中から当時の真実を知ることができます。
在12月13号那天,高20米、厚13米的城上根本见不到驻守的军队,因为守城司
令唐生智已经在12号傍晚7点弃城逃跑了。来到南京城下的日军看到的是堵在城
门外面堆积成山厚厚的砖石。这个超乎寻常的现象,原来是先逃出来的人为了
阻止后边的人再逃出而做的堵门工事,因为逃到江边的人太多的话,就不容易
逃命了;南京老兵还说,他们看到从墙头顺下来的绳索,这是因为城门被堵住
了,里面的人只好从高高的城墙上面翻出来,办法是利用挂在抢眼的绳索往下
溜,也就是绳子的一头绑上木棍、枪支或手榴弹,当作支架挂在城墙里用于扫
射的枪眼框内,而绳索的另一头投到城墙下面。
日军们在城外看到的是从上面顺下来的绳索,来到城楼里面才看到,每一个枪
眼都有绳索或者布带垂下去,任何可以拴住绳索的地方都被利用上了,连炉灶
都绑上了绳索,这种为了逃命费尽心机的方法让日军瞠目结舌。
使用这样的方法,国军士兵就可以顺着绳索爬下来。但是更让人想象不到的是
,不等逃兵着地,大多数人会被等着伏击的先一步逃出来的同伙们打死。为此
,城墙脚下堆着许多国军尸体和散乱的弹壳。还有一些侥幸逃出来的国军,怕
被日军认出来,索性扔下武器、脱下军装,其中有人在一丝不挂地拼命裸奔。
1937年12月13日黎明,日军官兵用自备的云梯登上南京城楼,扬起日本国旗。
但是大部队人马想要进城的话,需要扒开磊在城门外的砖石,城门外砖石堆积
成山,城墙上吊下来许多绳索,墙根下尸横遍野☟
12月13日のその日において、城を守る司令官の唐生智はすでに12日の夕方7時には城を捨てて逃げていたので、高さ20メートル、厚さ13メートルの城には駐屯する軍隊はまったく見当たりませんでした。
南京城下の日本軍が見たのは、厚い煉瓦や石を積み上げてふさがれた城門の外側でした。
これは、川辺に逃げる人が多すぎると簡単には逃げられないので、先に逃げた人が後の人を止めて脱出するために作った門を塞ぐ工事をしたという、尋常ではない現象でした。
南京の老兵はさらにこう言っていました。
彼らが壁の上から順序よくロープで下りて来るのを見ました。
城門が詰まっているので、中にいる人が高い城壁の上に繰り出すしかなく、目立つロープを掛けて下に垂らします。
つまり、棒や銃器や手榴弾をロープの端にくくりつけ、支柱として城壁の掃射用の銃眼枠にかけ、ロープのもう一方を城壁の下に投げるという方法です。
日本軍が場外において見たのは、上からロープで順番に下りて来る人たちであり、
さらに城の中に入って見たのは、
どの銃眼にもロープや布の紐がぶら下がっていて、ロープを掛けられる全ての場所が利用されおり、かまどにさえもロープが縛られていました。
これらの苦心惨憺した脱出方法を見て日本軍はあっけにとられました。
この様な方法を用いる事で、国軍士兵はロープに沿って登ることができたのです。
でも、もっと想像し難いのは
着地を待たずして、先に逃げてきて待ち伏せしていた仲間の脱走兵に、大勢の人が殴り殺されました。
そのため、城壁の下には多くの国軍の死体と散乱した弾殻が積み上げられていました。
幸いにも逃げ出した国軍は、
日本軍に見つかるのを恐れて、あっさりと武器を捨てて軍服を脱ぎ、中には一糸もまとわずに必死に裸で走っている人もいました。
1937年12月13日未明、雲台で南京城楼に登り、日本軍の将兵が持参した日本国旗を揚げました。
しかし、大部隊の人たちが城に入るには、城門の外でごろごろしている煉瓦や石をかき分けて、城門の外に煉瓦や石を山のように積み上げていく必要があります。
城壁からはロープがたくさんぶら下がっており,塀の根元には死体が至る所に転がっていました。
上面这张守城国军自相残杀的照片,被用来作为日军“南京大屠杀”的罪证☟
上のこの写真は城を守る国軍による惨殺写真で、日本軍の”南京大虐殺”の罪証として使われています。
下面照片是日军进入南京城门,是需要扒开先逃出来的国军为了阻挡还没来得
及逃出的国军,在城门外面用砖石严严实实堵住的城门☟
下の写真は、先に逃げてきた国軍が、まだ逃げきれていなかった国軍を阻むために、城門の外をレンガや石でしっかりと詰めていた城門を、日本軍がかき分けながら南京城門に入っていく写真です。
1937年12月13号南京沦陷☟
1937年12月13日南京没落
日军进城之后面对的是一片狼藉,有些建筑物还在冒烟,死去多日的尸体散发
着恶臭。除了安全区之外,不论市内还是郊外,基本上看不到居民的影子☟
日本軍が城に入った後に直面したのは一面の狼藉で、一部の建物はまだ煙を出していて、死んでから多くの日数が経った死体が悪臭を放っていました。
安全区を除いては、市内でも郊外でも、住民の姿はほとんど見えませんでした。
今回の翻訳はここまでにします。
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中国共産党(ロスチャイルド)のせいでたくさんの人たちが翻弄されていた(いる)んですね。
最後に下記のブログ記事をどうぞ。