他人に厳しく自分に甘い人は、自分を客観視できないので傲慢になりがち

メモ信仰の証, 傲慢, 正当化, 聖書


傲慢な人のイメージイラストです。

 

前回は、話が通じない人たちのことを書きましたが、話が通じないのは、相手がこちらの話を理解できていないというのが大きな要因です。

どうして理解できないのかと言いますと、単純に、私の説明の仕方がイマイチで、相手に対する配慮や工夫が足りなかったから。というのも当然ありますが

人というものは、興味が無い、よく知らない、あるいは、あまり聞きなれない言葉が出ると苦手意識が出て拒絶反応を起こしてしまい、その時点で集中力が切れて話の内容が頭に入らなくなります。

 

別の事例で説明すると

機械音痴でパソコンやスマホ等に苦手意識を持っている年配の人に、操作方法を何度教えても、なかなか覚えられない。というパターンは多いと思いますが、

そういう場合は、カタカナ語を聞いただけで拒絶反応を起こすタイプの人だったり、そもそも相手が機械の操作に全く興味が持てない最初から覚える気すらないとかだと、覚えてもらうのは至難の業となります。

私の母親がまさにそのタイプなので、こればっかりはどうしようもない。と開き直っています。

 

特に、法律上の手続きなんてものは、大半の人の日常生活において馴染みのないもので、とにかく退屈でしかないと思いますし、興味が持てないのも仕方がありません。

さらに、昔から知っている身内だと、ある程度距離が近い分感情的になりやすく、説明する人が目下の場合だと変なプライドとかもあって、途中でわからないと思っても素直に聞けないのかもしれません。

パート収入と年金暮らしで今後の生活に経済的な不安を漠然と抱えている時に、自分の親がそこそこの価値のある不動産を所有することになった!となれば、不動産投資でひと儲けして一発逆転できるかもしれない!と脳内お花畑となり、かなわない妄想を持ってしまうのも仕方がないと思います。

それらの事情により、まゆみの長男夫妻を一方的に悪者にするのも違うと思いますので、きちんと理解してもらえるように、身内ではない第三者(専門家)を挟み、改めて話し合いを持つ予定です。

 

この身内とのやり取りにおいて、自分にも非があり、単純にどっちが悪いとかどっちが正しいとかではないんだよなーと思っていた時に、下記のRAPTブログの有料記事(朝会の音声配信)の内容が頭に浮かんだのです。

 

2022年10月6日(木)
神様が裁きを下されるとき、この世の人々のように「どちらかというと、この人の方が悪い」という裁き方をしない。一ミリも残さず自分の罪を認めて悔い改めた人だけを義と見なし、その人の訴えだけを聞いて、その人を害する人たちを全て悪と見なして裁かれる。

 

この音声配信の中でRAPTさんが

自分を正当化してはいけない
自分の方が正しいとかそういうことじゃない
相手より自分が正しいとかそういうことじゃない
自分の罪は全部悔い改める
相手の罪を責める前に自分の罪を悔い改める

と仰っていて、太字にしている言葉が特に印象に残ったのです。

 

私が以前、保育士としてある公立保育園でアルバイトをしていた時の事を思い出しました。

保育園は集団保育なので、子ども同士の喧嘩は年齢問わず度々起こります。
大抵の場合は、両方が何らかの形で悪い部分があって喧嘩になっており、喧嘩両成敗という形で終わるパターンがほとんどなのですが、たまに判断に悩む事例もありました。

0.1歳児クラスにて、一人でおもちゃで遊んでいるA子ちゃんに対し、いきなりCちゃんが後ろから手で突き飛ばして転ばせ、泣かせてしまったのです。

A子ちゃん、Cちゃんは当時、1歳半位でした。

私はちょうどその現場を見ていたので、Cちゃんに対し、

「A子ちゃんは痛いって泣いてるよ。もうこんなことしないでね。ごめんなさいしようね」

と諭すように注意すると、Cちゃんは、少し不満そうな顔をしながらも、A子ちゃんに対し、ちょこんと頭を下げて謝りました。

一見、一人で遊んでいて何も悪い事をしていないA子ちゃんを、Cちゃんが突き飛ばしたので、Cちゃんが一方的に悪いということになりますが、

A子ちゃんは、おっとり系で少しだけ不器用な性格なので、何かと保育士に気に掛けてもらえる頻度が比較的高く、若干、集団保育に馴染めない時もたまにあり、周りのお友達を多少イラつかせていた部分があったのかもしれません。

Cちゃんは、そんなA子ちゃんに対し、どうしてあの子だけ?とやきもちを焼いていて、そのような行動に出てしまったんじゃないかと思います。

となりますと、CちゃんにはCちゃんなりの理由があり、突き詰めて考えると、保育士側にも少し配慮が足りない部分があったのかもしれません。

 

このような幼い子どもの事例に限らず、喧嘩や争いごとは、それぞれの罪(悪い部分や弱い部分)によって起こりますので、各自がそれに気付いた時点で悔い改め、無くそうと努力していくしかないと思います。

 

そこでふと、私の頭に下記の新約聖書の聖句が浮かびました。

ヨハネによる福音書 8

1イエスはオリーブ山へ行かれた。
2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

この聖句を簡単に表現すると

罪を犯した女をキリストのもとに連れてきて、裁くようにけしかける律法学者たちやファリサイ派の人々に対し、キリストが

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

と言ったところ、罪を犯したことのない人はおらず、誰も女を責めませんでした。

女は、自分の罪を心から悔い改めたので、罪を赦されました。

という感じになるかと思います。

 

これは

自分を正当化し、自分の罪(悪い部分や弱い部分)を認めずに悔い改めないまま人を裁こうものならば

他人に厳しく自分に甘い、自分を客観視できないイタイ人だと認識され

いや、お前が言うなよ。よく自分のことを棚に上げて相手を批判したり注意したりできるね。
何様のつもり?

と相手や周囲の人に言われかねませんし、そのまま何も変わらずに罪を抱えたままですと、自分は何も悪くない、自分はいつも正しい、と勘違するような、傲慢な人になってしまいます。

そうならないように神様は

一ミリも残さず自分の罪を認めて悔い改めなさい。
そうすれば、あなたを清い正しい人だとみなし、あなたに害を与える人を私が裁いてあげよう。

と御言葉の中で仰ってくださっています。

神様は私たち人間が傲慢になって堕落しないように、完全を目指してどこまでも成長できるように、たくさんの愛を込めて導いてくださっています。

聖書は本当に奥が深いです。

そこで、RAPTブログの有料記事の聖書についての説明や御言葉(神様の言葉)は、とてもわかりやすいので、それを手引き書に聖書をじっくりと読み込む事をお勧めしています。

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一人でも多くの人が神様の大きくて深い愛に気付き、いつも聖霊に満たされて豊かに幸せに生きられるようになりますことを心より願います。

メモ信仰の証, 傲慢, 正当化, 聖書

Posted by sanae